モールス/ぼくのエリ

「モールス」を観に行きました。
丁度昨年の今頃、この映画の元となるスウェーデン版「ぼくのエリ」を観に行き、キーンと寒そうな印象深い作品だったので、アメリカ仕様だとどうなるのか、見比べてみたくなりました。
アメリカ版の監督マット・リーブスの「クローバーフィールド」を全く期待せずにWOWOWで見たら、存外に面白く、今回は少々期待しました。結果的にはおもしろかったのですが、今度はどうしても、スウェーデン版「ぼくのエリ」を見直したくなり、DVDを購入(ちょい高値でした)。
どちらに、よりグッと心を掴まれるかというと、私は「ぼくのエリ」です。
なぜキーンと寒い印象だったのか、見直してわかりましたが、広い空間に人間がポツンと一人いるショットが多いのです。天井の高い教室に一人居残るシーン、ジムで体を鍛えている間に、いじめっ子にズボンを水に浸けられて、だだっ広い雪道をトランクスに長靴(寒そう!)で一人トボトボ帰るシーン。「モールス」は刑事も出てきて、少女アビーの保護者だった男は、カーチェイスの果てに、警察につかまり自ら塩酸で顔を焼く。「ぼくのエリ」では、男がジムで血を抜き取る青年を物色し、使われていないトレーニングルームに連れ込むも、青年の友人らが探しにきてしまい逃げ場を失う。閑散とした部屋の奥まった薄暗い場所で、男は観念して静かに座り込み、自分の顔を塩酸で焼く。同じ箇所でも、全く「動」と「静」。こうも表現が違うかと興味深いです。
主人公は「ぼくのエリ」ではオスカー、「モールス」ではオーウェン、〝女の子〟とからかわれるいじめられっ子で、オスカーのカーレ・ヘーデブラントは、これがもう透き通るような白い、きめ細かな肌に金髪の細っこい少年。オーウェンのコディ・スミット=マクフィーは意志的な強い眼力の持ち主。いじめられっ子には、ちょっと見えにくい。200歳の少女は「ぼくのエリ」ではエリ、「モールス」ではアビー、エリのリーナ・レアンデションは、ギョロ目黒髪、立派な鼻で、時として老獪な女にも、或は少年にも見えます(原作では、残酷な貴族に去勢された少年なのだそうです)。アビーのクロエ・グレース・モレッツは、昔のクリスティーナ・リッチを思わせる、はっきりした目鼻立ちの美少女。少年には見えないので、監督が「去勢云々」の過去を削ったのは正解かもしれません。
舞台は郊外の団地で、「ぼくのエリ」ではそのチープさが出ていますが、「モールス」では照明に凝って撮影されているので高級マンションのようにも見えます。街の閉塞感は「モールス」では「こんな街大嫌いだ」のオーウェンのセリフに集約されますが、「ぼくのエリ」では、夥しい数の猫と生活する独身の中年男や、煤けた店に集まっては、酒飲んでグダグダ時間をつぶす、お肌の疲れた厚化粧の中年女性や中年男性たちの鬱屈で表現されます。郊外の住宅地の憂鬱は、スウェーデン版の方がよく出ています。アメリカ版は街の人々の生活を割愛して、刑事や、主人公の親の離婚騒動などにより時間をさいており、なにもそんなに宗教観や親子問題を前面に出さなくても…というのが、私にとってのマイナス点でした。
逆に、80年代始めという時代背景は、病院のTVに映るレーガンの演説シーンやら、カルチャークラブ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのヒット曲で「モールス」の方がよりわかりやすかったです。あとは、「クローバーフィールド」でもダイダラボウのような不気味な怪物がいい味を出していましたが、アビーが闇の中で、いきなり餓鬼のようなシルエット、クモのような動きで人を襲うシーンは気味が悪くてインパクト大でした。
本気で見比べてみるというのも、なかなか面白いものです。
「ぼくのエリ」 LET THE RIGHT ONE IN  監督=トーマス・アルフレッドソン
「モールス」 LET ME IN  監督=マット・リーブス

カテゴリー: 映画 | コメントする

先月観に行った「蜂蜜」にハマってしまい、この監督の「ユスフ3部作」をどうしてもみてみたくなりました。
冒頭、霧のかかった草原の一本道を、向こうの方から老婆がサクサクと歩いてきます。画面の手前までやってきてふ〜っと一息、今度はその後ろ姿をカメラが長く長く追います。細長い木立が、霧の中に水墨画のように並びます。
そしていきなり大都会、イスタンブール。「蜂蜜」の黒目がちな少年は、古本屋のおやじになっています。3部作の、これが一本目なので、中年(男性は皆髭を生やすので、正直なところ年齢は不詳ですが…)から始まる構成だったんですね。電話が鳴って、母親の訃報。何年も帰っていないティレの実家へ戻るところから物語は始まります。実家へ戻ってみると、頃は17〜8のきれいな子が、台所で洗い物をしていてビックリ。聞けば、4年間母親と暮らし、世話してくれていたアイラという遠縁の娘。ということは、5年も6年も母親放ったらかしだったということですね。それでいて、葬式が終わったら即、明日にでも帰ろうとしている息子に、アイラは少々不満です。母親が、神に羊を捧げる約束をしていたことを伝え、「そういうの信じないから」というユスフに「でも、お母様の遺言だから」とキッパリ。仕方なく、翌日羊を手に入れて儀式の会場に出かけることに。さぁ、車を出そうとするとワイパーが折られており(これは、アイラを好きな青年が、仲良さそうに連れ添っているユスフに嫉妬して悪さをしたんですが)、車の修理で待たされ、やっとアイラと二人で羊を買い付けにいくと、放牧中だからまた明日来いと追い返され、天の采配のように足止めを食らい続けます。その度に、幼なじみと出会ったり、思い出の湖で一泊したりと、一つ一つを引き出し開けていくように、懐かしい思い出が出てくるのですが。
羊の儀式はプロの手で執り行われ、老婆達が羊を解体していくのを数時間待たねばなりません。ようやく、夕暮れ時に実家へ戻り、ユスフはアイラだけを降ろして、家にも入らず帰路につきます。彼女は、詩人として文学賞も取ったこの都会者のインテリ叔父に憧憬があるようです。大学進学の準備中の彼女は、いろいろ聞きたいこともあるでしょうし、彼だってお母さんの話をもっと聞くべきでしょうに。仕様がない息子です。でも、ここで再び天の采配が。帰る途中、あまりに夕日が美しいので、ユスフは車を降りてそれを眺めます。さて行くか、と思ったとたん、大きな犬に飛びかかられる。どうもよその放牧地に入り込んでいたようで、土佐犬のように頑丈そうな犬は、ひっくり返った彼がそ〜っと起き上がろうとする度に、牙を剥いてガルルガルルと怒ります。そのうち、辺りは墨を流したように真っ暗に。仕方がないので、その場に座り込んで呆然とするうち、死んだ母のことを思ってか、ふいに嗚咽するユスフ。彼の真正面で牙を剥いていた犬は、しゃくり上げる彼を前に急に黙ってしまいます。なんだか、可笑しいような切ないような不思議なシーンです。
その場で眠りこんで目が覚めたら、うっすらと夜も明け、犬もいません。結局また実家へ戻るハメに。
アイラが、鶏小屋へ朝食用の卵を取りに出て戻ると、件の叔父が舞い戻ってきていて、モソモソとパンなど摘んでいます。この映画の最初から最後まで、何かあると、まずお茶です。透明なガラスのカップに熱いお茶を入れて角砂糖をコロリ、しかる後に物事を廻し始める。このラストシーンも、アイラが熱いお茶を入れてくれて、なんだかぐったりした叔父に(そりゃそうです。犬に脅されて草っぱらで夜明かししたんですから)チーズなどを勧め、お互い「てへっ」みたいな照れ笑いで朝食をとり始めるところで終わります。エンドクレジットの間も、この朝食のカチャカチャした音が続いて、後ろの情景を思い浮かべてしまいます。ちょっと「トウキョウソナタ」のラストシーンみたいですね。やはり、全編通して音楽は入りません。全ての音が、心地よく丁寧に録られています。あぁ、やはりこの監督の作品は好きです。って、まだ2本しか観ていませんが。
最後まで見通してみると、冒頭の老婆はお母さんで、霧の草原は此岸と彼岸の境目だったのでしょうかね…

「卵」 Yumurta 監督=セミフ・カプランオール

カテゴリー: 映画 | コメントする

ラストターゲット

ラストターゲットを観てきました。
魅かれた理由は「ジョージ・クルーニー」「イタリアの城塞都市」でしょうか。邦題が大仰ですが、見た印象では原題「The American」の方がしっくりきました。
スナイパーとして生きてきた男が、この仕事を最後に、と思った矢先に潜伏先のスウェーデンで狙撃され返り討ちに。ローマの雇い主の指示で、アブルッツォ州の城塞都市カステル・デル・モンテに移るところから始まります。ここら辺の町並みは、白いんですね。街中は、アッシジやサンジミニャーノのように、細かい路地が迷路のよう。
そしてクルーニー。ほとんど喋りません。笑いもしません。鏡やガラスやティーポットで、やたらに自分の白い歯を確認する弁護士(ディボース・ショー)や、逃げ込んだラジオ局で成り行きで歌を歌ったら、ヒットして調子に乗る気のいい脱獄囚(オー・ブラザー)、自分で言い出せない雇い主に変わって、ベラベラ口八丁でリストラを敢行する営業マン(マイレージ マイライフ)も、なりを潜めます。依頼されたライフルを、緻密に削って削って組み立てていく作業の合間に、懸垂と腕立てとストレッチ。日々、地味です。でも、作業シーンはアップ多用で、なかなか美しく丁寧に撮られていて気持ちがいい。2〜3度出てくる、重低音の演出過多な音楽は、押し付けがましくてイマイチですが、ピアノ曲などは美しいし、基本的には静けさが良いです。
ラスト近く、ライフル受け渡しで訪れる殺風景なドライブイン、依頼人の美女が化粧室へ席を立ち、一組いた客が帰り、カウンターにいた店の人間も奥へ入り、シン…とした店内にクルーニーが一人取り残されます。「俺たちに明日はない」のクライマックスのようなシーンなので、いきなり蜂の巣にされるのでは、とドキドキしますが、静かなまま。ドカドカしい場面は最後までなく、打ち合いは常に1対1です。
「エドゥアールド、エドゥアールド!」(エドワードのイタリア語読み)と、女の声が空しく響くラストもなかなか。欲を言えば、画面が美しいのですから、街中などもう少し落ち着いて長回しをしてほしかったです。
カステル・デル・モンテ、行ってみたくなりました。Googleで見てみたら、緑色の中に、ポツネンと地名があるばかり。本当に山の中のようです。車がなければ無理かも…

「ラストターゲット」The American 監督=アントン・コービン

カテゴリー: 映画 | コメントする

名和晃平 SYNTHESIS展

木場の現代美術館に「名和晃平 SYNTHESIS(シンセシス)」展を観に行きました。
最初の部屋が、物がフラットに見える真っ白な照明で、いきなり立ち眩みが。昔の「ジューシーのキャップ」(古い…)のような材質の半透明のボックスがいくつか置かれていて、近寄ってあれこれ角度を変えて見ると、中にスニーカーやサボテンやフランスパンがあるような、でも表面の3D画像だけで実態はないような。
進むと、大小無数の透明の球体に覆われた鹿の剥製。水晶玉ほどの大きな球体を通して、かろうじて鹿の毛並みがわかる程度で、しかも球体に客の足下が逆様に映ったりするものだから、いよいよ自分が何を見ているのかわからなくなります。
次の部屋には、軽石か珊瑚の彫り物のような、プツプツモヨモヨしたオブジェ。小型な物は、「手榴弾?」「バナナ?」「盆栽?」と、なんとか形状がわかりますが、続く部屋の大型オブジェは、かすかに「馬の頭部?」ぐらいしか見分けが付かず。しかも、オレンジ色の照明は、青山トンネルの中ように色が抜けて肌も何も青く見え、客も作品も皆均質に見えます。
別の狭い部屋は、床にR(レッド)G(グリーン)B(ブルー)のドットが、グルグル寄せたり引いたりしながら投射され、微妙に床が傾斜していることもあり、平衡感覚が無くなって尻餅つきそうになったかと思うと、続く広い部屋は真っ暗で、床に埋め込まれた長方形の「牛乳池」に規則的に、丸い泡(またドットですね)がポコツポコツと、音を立てて浮き出ます。膝をついて覗き込まずにはいられない衝動が…。
面白い試みだと思ったのは、タイトルプレートが一切ないことです。
まずは、ともかく見続ける。だから、集中力が持続します。遠近感や平衡感覚がなくなって異世界に降り立つ気分になるのも、そのせいかもしれません。
見終わった後、解説付き見取り図が配られ、「あぁ、あれは発砲ポリウレタンというものですか」「あぁ、牛乳池はシリコーンオイルというものですね」「ピクセルシリーズ(PixCell=Pixel+Cellの造語だそうです)、フムフム、72dpiのドットでモニターが全てを映し出すように、3次元をドットで再構築とかなんとか?」などとお勉強が始まり、見取り図を広げつつ2回目に廻る時はもう「立ち眩み」もありません。
私は単純に、遠近、平衡、材質などが取っ払われていく身体感覚が、とてもハマりました。

カテゴリー: 美術展 | コメントする

大鹿村騒動記

ご贔屓の阪本監督作品なので、封切りを楽しみにしていました。今回の作品は1000円均一だそうで、知らずに出かけたので、ちとうれしい。
原田芳雄、岸部一徳、大楠道代、佐藤浩市と、阪本映画では何度もお目にかかる役者陣に加え、これもよくコンビを組む撮影・笠松則通の映し出す11月の大鹿村の紅葉。
「どついたるねん」「王手」「傷だらけの天使」「愚か者」「顔」と笑える作品は少なくないですが、それでもどこかに情念のような重い影があるいつもの作りと異なり、今回ばかりは楽しい明るい仕上がり。駆け落ちで、18年もいなくなっていた妻と親友の帰還なんて、いくらでも「情念の世界」になりそうですが、あえてそこは削ぎ落とした感じ。
その代わりに、芸達者な役者陣が、各シーンをそれぞれの個性で楽しませてくれます。岸部一徳は最初から最後まで情けないし(官房室長ですのに…)、認知症になりかけている大楠道代が、お店から塩辛の瓶を取ってきてしまうシーンは、なんだか少女のよう。石橋蓮司、小野武人、でんでん、小倉一郎と、いい大人がみな、野っ原を駆け回った延長線上で、玄ちゃん、善ちゃん、オサムちゃんです。岸部、でんでんのお二人は、ケツまで見せてくれます。
そして最後の大鹿歌舞伎にも力が入ります。850人の観客は、地元を中心に各地から集まったエキストラの方々で、声援も手慣れたもの。芝居の途中でもかけ声、役者にぶつけかねない勢いでおひねりがブンブン飛びます。
最近、DVDで「魂萌え」「新・仁義なき戦い」を見直し、メイキングで監督が、立ち位置からタイミングまでかなり細かな指示を出しているのに驚きましたが、今回は、多忙な面子を長野の山奥にとどめておけるのはたった2週間だったそうで、ほとんどが一発勝負とか。心がもう、5日先の本番に飛んでじゃっている慌ただしさが出ていておもしろかったです。
と、これを書いている最中に、ネットに原田芳雄さんの訃報が。
あぁ、まだまだ見ていたい役者さんだったのに。残念です……

『大鹿村騒動記』阪本順治

カテゴリー: 映画 | コメントする

パウル・クレー展

竹橋の近代美術館で、パウル・クレー展を見てきました。
実は二度目です。今回、大きな作品はなく、一つの作品を切り離して分けたり、薄い紙に両面から書いて立体的にしたりと、技法別に分けられた面白い展覧会でした。
クレーは好きで、画集も持っていますが(MOMAみやげ、英語版なので読めません。見て楽しむってヤツです)長い間エッチングだと思っていたお気に入りの作品群が、「油彩転写」という、カーボンコピーのような手法で転写して彩色する方法で描かれたものと、初めて知りました。彩色済みの作品と、元の素描が並んで展示されているのですが、素描だけ見ると、素人目には上手いのか下手なのか「???」なものもあります。これが転写されて線画がゴリッと強くなり、そこへ美しい色がかぶると、実に面白い作品に。「蛾の踊り」「住人のいる室内透視図」「鳥の島」「綱渡り師」など、行きつ戻りつ何度も見入ってしまいます。
一度目は始まったばかりの土曜日に行って、もうすでにたくさんの人が見に来ており、人様の後頭部を眺めるはめになった作品もいくつか。油彩転写の作品群を、どうしてもゆっくり見たくて、初めて金曜日の夜間開館(8:00まで見られます)へ。
堪能しました。

カテゴリー: 美術展 | コメントする

蜂蜜

トルコ映画、初めて見る監督です。
ヒタヒタに音に浸る映画でした。特に歩く音。石ころだらけの山道を、げちゃげちゃのぬかるみを、森の道を落ち葉を踏みしめて歩く音を、丁寧に拾っていて耳に心地いい。
ユスフは、小学校に上がったばかりの少年で、山奥の高い木の上に巣箱を取り付けて蜂蜜を取る養蜂家のお父さんと、お母さんの3人暮らし。山奥に建てられた彼らの家は、外観は質素ですが、内部は実に住み心地良さそうです。山側の大窓にかけられた花柄のカーテン、窓の下にしつらえた木造りの長いソファには、色とりどりのクッションと敷物。ワンプレートの朝ご飯も、なにやらカラフルで美味しそう…。
特に好きだったシーンがあります。 お父さんの作業場で、ユスフは木を削った作りかけの船の模型を見つけます。時々作業工程をこっそり確認したりして、仕上がりを楽しみにしますが、ある日お父さんが仕事用の縄を買い行き、その家の息子で、ユスフのクラスメートでもある少年に、何かをあげているところを目撃。取って返して作業場を調べると、あの船の模型が無い。お父さんに、それとなく「船は?」と尋ねると「海に出た」と。自分ではなく、よその子に上げてしまったことがショックで、隣の席のその友だちに、彼はちょっとした意地悪をします。 友だちが風邪で学校を休んだある日、家の大窓の桟に、色紙で美しく帆を付けた、例の船の完成形が飾られているのを見つけ、自分がとんだ勘違いをしたことに気づく。ユスフはその船を鞄に入れて友だちを訪ね、眠っている彼のアタマをなでて、黙って船を置いてくる。その一連のシーンに、一切台詞は無し。ぐっときます。
3部作の3話目だそうですが、他の2本も見たくなりました。

●『蜂蜜』Bal 監督=セミフ・カプランオール

カテゴリー: 映画 | 1件のコメント